2012年9月2日日曜日

ほんとに身近な科学技術(遺伝子組み換え作物についての私見)

大きな問題として採り上げられるようになった「農薬」による環境破壊・肉体破壊。それを克服し、農薬をなるべく使わずに済ませる方法の糸口の一つとして開発されたのが、遺伝子組み換え作物です。勿論、それ以前より、「育種」という形で、病虫害抵抗性品種などの研究・開発は為されてきましたが、遺伝子組み換え技術は、そのスピードと効率・目的性において革命をもたらしたわけです。

例えば、病虫害抵抗性遺伝子を組み込んだ作物のメリットは、農薬の使用が最小限で済むので、①農薬のコストがかからない ②農薬による環境破壊が軽減される ③農業生産者が大量の農薬を浴びなくてすむため、生産者の健康が守られる ④農業生産労働の軽減 ⑤生産物への農薬の影響が小さいので、消費者の健康が守られる こんなところです(例えば、ポスト・ハーベスト農薬←収穫後の作物にかける農薬 をなくすor減らすなど、他にもたくさんあるでしょうが)。


一方、リスクは既に指摘されているように、例えば作物の生産する病虫害抵抗性物質の人体への影響が未明(動物実験程度ならされている)、生態系への影響が未明、といったことです。

*勿論、遺伝子組み換え作物には、病虫害への抵抗性遺伝子を組み込んだものばかりではなく、例えば除草剤を周りでガンガンかけてもぶったおれない因子を組み込んだもの(除草剤耐性作物)など、様々なものをつくりだすことができますし、実際つくりだされています。

私は、マスコミが十分な説明をせずにセンセーショナルに煽るだけ煽っているのが原因で、現在の遺伝子組み換え食品への大衆の拒絶反応はちょっと行き過ぎではないか、という印象を受けます。

極端な話ですが、農薬がたっぷりかかった食べ物と、農薬のかかっていない遺伝子組み換え食品を並べて、どっちかを必ず食わないと生きていけないとしたら、どちらを食するでしょうか? 農薬の種類にもよりますが、大抵は遺伝子組み換え食品の方がましでしょう。しかし、農薬がどれほどかかっているかは消費者には殆ど知らされません(消費者の関心も遺伝子組み換えの有無に偏っている)ので、「とにかく遺伝子組み換え食品は×、農薬かかっているかもしれないが遺伝子組み換え食品じゃなければOK」という短絡的で誤った観念が支配的になっているように思うのです。

(例えば、ポテトの話も、実のところ国内産のポテトとカナダの「害虫抵抗性及びウイルス抵抗性」ポテトと、どちらが健康に害を与えるか分かったものではありません)

さらに、「消費者」という立場だけから言うと、病虫害抵抗性遺伝子を組み込んだ作物の導入によって農薬の使用量を減らし、結果的に生産者の健康や田舎の自然環境を守ることは、自分たちが「“遺伝子組み換え作物”なんていうわけのわからんものを食べさせられる」ことに比べたら、どうでもいいことです。「安くて安全な食べ物を供給しろ。でも遺伝子組み換え作物は使うな。農薬も使うな」。農業する人の両手両足を縛っておいて己の要求だけを突きつける、この無自覚な消費者意識が最大の問題なのではないかと感じます。

まずは、消費者の立場に偏ってセンセーショナルな報道をするばかりのマスコミの情報に対して、一線を引くことが重要です。実態を正しく識ることです(もちろん、私のこの投稿もまだまだ一面的ですので注意)。

また、「環境・農業」の会議室でも議論されていますが、消費者と生産者の顔の見える関係の構築がやはり重要だと思います。今のままの、「生産者の苦労や健康など知ったことではない。安くて安全な食べ物を供給せよ」という“消費者意識”では、農業をすすんでしようという人がいなくなってしまいます。さらに将来的には、消費者・生産者・地域の自然環境など、全体にとってのリスクとベネフィットを適正評価・考慮して対策をたてなくてはなりません(それを担う機構をつくる必要があります)。

やはり、「実現論」の中でも大きく採り上げられていますが、「消費者が王様」「生産者はしもべ」という社会構造そのものを変革していく必要があると思います。

*遺伝子操作そのもの是非と自然観の問題が残ってしまいましたが…。これについても、「遺伝子操作=悪」と言ってみても、一度できてしまった技術が無くなるわけではないので、「環境・生産者・消費者 全体にとってのリスクとベネフィットを適正評価・考慮して使用を制御していく…」しかないと思います。でも、複雑系を予見する能力を持ち合わせていない人類がやると、必ずしっぺ返しをくらう…。ジレンマで頭の中がまとまりません…

*日本の農業をつぶさんとするアメリカの強引なやり方には怒りを感じます。この点は大いに同感です。


蘆原健吾

0 件のコメント:

コメントを投稿